今の時期、轟の棚田の頂点に立つと、足下に轟の集落や鎮守の森があり、その先にヒコバエの黄色に染まった田圃が広がり、遠くには周防灘があって、その手前に海岸線に沿った工場群が望遠できたものでした。この棚田の耕作者が亡くなられてからは放置されたままになって、私の背丈を超えるような萱などが生い茂って景観を楽しむことなどできません。棚田に沿って流れる小川に切り込むように立つ崖には、川底柿の古木が散在していて、どの樹も柿が鈴生り。住民の高齢化もあって摘果するには危険が伴うので手つかずのまま。間もなく完熟すると鳥たちの絶好の餌になってしまうのでしょう。
 轟地区の人口は30名を切ってしまい、かつて200名を超える人が住んでいたということは昔話になってしまいましたが、24年産の棚田米は8県の農家の努力で前年と変わらず、150俵確保できています。8軒の農家にはそれぞれ後継者がいますので大変心強く思っています。極端に条件の悪い耕作放棄地の回復は困難としても、現状は何とか維持できるのではないかという希望がもてます。豊前市のゆずの生産額の70%を占める轟地区のゆず生産農家も健在です。
 日本の農村の原風景でもあり、多様な生物が生息し、保水力の維持などにも貢献する棚田の多面的機能も生きています。しかも、田植えのあとに豊作を祈願する集落総出の早苗宴、収穫のあと豊かな稔りをもたらしてくれた神々に感謝しての神楽の奉仕など、古来から受け継いでいる農村文化の伝統も今後とも継承されていくのではないかという明るい夢も持てるようになっています。
 先日、轟の区長さんから「轟の集落が今日あるのは、道の駅豊前おこしかけがあるからです。」と、言われました。大変恐縮しましたが、集落が存続していくためには、私達はこれからもしっかりと、お米、ゆずなどに対する農家の投下労働に見合った価格で購入する姿勢を保持し、販路を確保していくという努力が欠かせないことを、改めて認識した次第です。
 轟の集落の現状は確かに限界集落もいいところです。しかし、限界集落が即消滅集落ではない、否、そうならないためには、これからは我々だけではなく、行政も市民も地域あげての協力支援体制が欠かせないのではないかと考えているところです。